約 97,225 件
https://w.atwiki.jp/mitsu_sangoku/
見つけて!三国志wiki 「見つけて!三国志」は2020/03/31 15 00に終了しました。 当wikiは、株式会社ウィットゲームスが提供するiOS/Android用アプリ「見つけて!三国志」の非公式wikiです。 どなたでも自由に編集してください。 当wikiの情報の妥当性や正確性について保証するものではありません。 またご利用につきましては、自己責任となりますのでご注意ください。 なお、当wikiのデータは現在、主にアプリ版に準拠しております。 コロプラ版「見つけて!三国志PLUS」に対しても適用可能であるかを保証することは出来ないため、予めご了承ください。 どんなゲーム? 携帯端末の位置情報機能(GPS)を利用して、三国志に登場する様々な武将を登用(収集)・育成する位置情報ゲームです。 武将を登用するためには、様々な場所で「チェックイン」を行う必要があります。 「チェックイン」を行った市区町村に武将がいた場合は、登用のチャンスです! いろいろな場所に「チェックイン」して、様々な武将を集めていきましょう。 また「チェックイン」した市区町村は、自身の領地とすることが可能です。 登用した武将を3人組み合わせて「バトルデッキ」を作成し、その市区町村を領地としている他のプレイヤーとバトルを行い、勝利することで領地を獲得できます。 市区町村内の多くの場所で「チェックイン」することで、その領地における「ランク」を上げられるようになります。 様々な場所で「チェックイン」を行い、武将を集めて育成して、最高ランクである「大将軍」を目指しましょう! アプリ情報 配信日 iOS版 2017年10月30日 Android版 2017年11月10日 PLUS版 2018年06月14日 提供 株式会社ウィットゲームス 対応端末 iOS 10.0以降 Android 5.1以上 価格 無料 (一部課金コンテンツあり) 公式サイト http //mitsukete-sangokushi.jp/ 公式Twitter アプリ版 https //twitter.com/mitsu_sangoku PLUS版 https //twitter.com/mtsusancolpl
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/109.html
<魏 237年> <蜀漢 237年> <呉 237年> 237年 青龍五年→景初元年 (魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 毛氏(明悼毛皇后・河內人)→(死亡) 三公 燕王:公孫淵(自称して自立する。改元して紹漢元年。百官を置く) 太傅:(空位) 太尉:司馬懿(前大将軍) 司徒:(空位)→陳矯(前尚書令)→(死亡) 司空:(空位)→衛臻(前尚書僕射) 九卿 衛尉: その他の要職 大司馬:公孫淵(樂浪公・前車騎將軍) 大将軍: 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:→ 地方官 荊州刺史:胡質 幽州刺史:母*丘儉 主な事件 景初元年春正月壬辰、山茌県で黃龍が現れたと伝わる。これを有司が奏上し、魏が地統を得ている為として建丑之月を正月とすべしと述べた《三国志魏書明帝紀》 三月、曆を定め、改年し孟夏四月とした。服色は黃を尊び、犧牲には白を用い、戦の事には黑く首が白い馬に乗り、大きな赤の旗を建て、朝会には大きな白の旗を建てた。改めて太和曆を景初曆と言う。其春夏秋冬、孟仲季の月は正歲(現在の暦)と同じではないといえども、郊祀、迎氣、礿祠、蒸嘗、巡狩、蒐田﹑分至、啓閉、班宣時令、二十四節季の早い晚い、敬授民事、皆現在の暦と同じ順序とした《三国志魏書明帝紀》初め文皇帝が即位し漢から受禪した時、漢の正朔に従って改めず。帝は東宮にあった時論を著し、正朔は改めるべきで、受命之運を明らかにすべきと述べた。即位するに及んで、久しく放置されていたのを史官が改めてはと述べたので、三公、特進、九卿、中郎將、大夫、博士、議郎、千石、六百石に詔して博く議させたがまとまらなかった。帝は古典に拠って、甲子に詔して「今三統の順を推察すると魏は地統を得ていて建丑之月をもって正月と為すべきだろう。青龍五年三月を改めて景初元年四月と為す」《三国志魏書明帝紀に引く魏書》 五月己巳(5月2日)、洛陽宮に還る《三国志魏書明帝紀》 五月己丑(5月22日)、大赦《三国志魏書明帝紀》 六月戊申(6月12日)、京都に地震《三国志魏書明帝紀》 六月己亥(6月3日)、尚書令の陳矯を司徒と為す。尚書僕射の衛臻を司空と為す《三国志魏書明帝紀》 六月丁未(6月11日)、魏興郡の魏陽、﹑錫郡の安富、上庸を分けて上庸郡と為す。錫郡を省き、錫縣を魏興郡に属させた《三国志魏書明帝紀》 有司が奏上するに、「武皇帝は乱を廃し正に変えしたので魏太祖となり音楽は武始之舞を用い、文皇帝は受命天に応じて魏高祖となり、音楽は咸熙之舞を用い、帝は治を興して魏烈祖となり、音楽は章(武)[斌]之舞を用います。三祖之廟は萬世において壊さず、その他の四廟は親しさに合せて迭毀するようにしましょう」と。《三国志魏書明帝紀》 秋七月丁卯、司徒の陳矯が薨ず。孫權は將の朱然等二萬人を遣わして江夏郡を囲む。荊州刺史胡質等は迎撃し退走させた。初め孫権は使者を遣わして海路より高句驪と通じ遼東郡を襲おうとした。幽州刺史の母*丘儉は諸軍及び鮮卑・烏丸を率いて遼東の南の境に屯す。璽書で公孫淵を徴し淵は兵を発し叛く。儉は軍を進めて討ち、雨が十日も降り続く中対陣し、遼水が氾濫する。詔をもって儉の軍を還えす。右北平の烏丸單于が婁敦を攻略し、遼西の烏丸都督王護留等は遼東に居座る。率いてきた部族の者は儉に従って內附する《三国志魏書明帝紀》 七月己卯(7月14日)、遼東の將吏士民に詔して淵に脅され略され降ることができなかった者を一切赦す《三国志魏書明帝紀》 七月辛卯(7月26日)、太白が昼に見える。淵は儉が帰還すると遂に自立して燕王と成る。百官を置き、紹漢元年と改元する《三国志魏書明帝紀》 青・兗・幽・冀の四州に大いに海船を作るよう詔す《三国志魏書明帝紀》 九月、冀・兗・徐・豫の四州の民が洪水に遭う。侍御史の循行を遣わして溺れ死んだもの及び財產者を失ったものに在所の官倉を開き救う《三国志魏書明帝紀》 九月庚辰(9月16日)、皇后の毛氏が卒す《三国志魏書明帝紀》 冬十月丁未(10月13日)、月が熒惑を犯す《三国志魏書明帝紀》 十月癸丑(10月19日)、毛后を悼み愍陵に葬る《三国志魏書明帝紀》 十月乙卯(10月21日)、洛陽南の委粟山を圜丘と為す《三国志魏書明帝紀》 十二月壬子(12月19日)冬至、祭祀を始める《三国志魏書明帝紀》 十二月丁巳(12月24日)、襄陽郡の臨沮・宜城・旍陽・邔の四縣を分けて襄陽南部都尉を置く《三国志魏書明帝紀》 十二月己未(12月26日)、有司は奏上し、文昭皇后の廟を京都に立てられますように。襄陽郡の鄀葉縣を分けて義陽郡に属させる《三国志魏書明帝紀》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/161.html
<魏 223年> <蜀漢 223年> <呉 223年> 223年 黄武二年(呉) 皇帝 曹丕(魏文帝) 三公(呉) 呉王:孫権 丞相:孫邵 その他の要職(呉) 太常:? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 主な事件 二年春正月、魏の曹真は軍を分けて江陵の中州に拠る。《三国志呉書呉主権伝》 是月、城江夏山。四分暦を改めて乾象曆を用いる。《三国志呉書呉主権伝》 三月、曹仁は將軍の常彫等を遣わして、兵五千をもって油船に乗り込み、濡須の中州に渡る。曹仁の子の曹泰は軍を引いて急に朱桓を攻める。朱桓は之を拒み、別に將軍の嚴圭等を遣わして常彫等を擊破する。《三国志呉書呉主権伝》 三月、魏軍は皆退却した。《三国志呉書呉主権伝》 夏四月,孫権の臣下は尊號を奉るべきと勧めたが、孫権は許さなかった。《三国志呉書呉主権伝》 劉備が白帝で薨去する。《三国志呉書呉主権伝》孫権は立信都尉の馮熙を遣わして蜀に行かせ、劉備の喪を弔う。熙字子柔。潁川人。《三国志呉書呉主権伝に引く吳書》 五月、曲阿で甘露が降ったと伝えて来た。《三国志呉書呉主権伝》 六月、これより先、戲口の守將である晉宗が將の王直を殺し、魏に寝返っていた。魏は蘄春太守と為す。晉宗は数度呉の邊境を侵犯する。孫権は將軍の賀齊に命じて糜芳、劉邵等を督して蘄春を襲撃した。邵等は宗を生け捕りにした。《三国志呉書呉主権伝》 冬十一月、蜀は中郎將の鄧芝を使者にして來聘した。《三国志呉書呉主権伝》蜀は馬二百匹、錦千端、及び方物を返礼とし、自今後、互いに往来することが常態となった。吳はまた産出物を返礼としその厚意に答えた《三国志呉書呉主権伝に引く吳歴》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 222年<< >>224年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/80.html
<魏 223年> <蜀漢 223年> <呉 223年> 223年 章武三年→建興元年(蜀漢) 皇帝 劉備(漢昭烈帝)→劉禅(後主・魏安楽公) 皇后 吳氏→長楽宮皇太后と為す 張氏(車騎將軍張飛の娘) 三公(蜀漢) 丞相:諸葛亮(前軍師将軍) 司徒: その他の要職(蜀漢) 錄尚書事:諸葛亮 太傅: 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府: 大将軍: 驃騎将軍:? 車騎将軍: 衛将軍:? 主な事件 章武三年春二月、丞相の諸葛亮は成都から永安に至る。《三国志蜀書先主伝》 三月、黃元は兵を進め臨邛県を攻める.將軍の陳曶は黄元を討って黄元軍は敗れる。黄元は流に従って長江を下るもその親兵が縛るところとなり、生きて成都に送られ、斬られる。《三国志蜀書先主伝》 劉備の病は篤くなり、孤を丞相諸葛亮に託し、尚書令の李厳を副と為す。《三国志蜀書先主伝》 夏四月癸巳、先主は永安宮に於いて亡くなる。時に年は63歳。《三国志蜀書先主伝》 五月、劉禅は成都に於いて襲位する。時年17、皇后を尊んで皇太后と為す。大赦して改元す。《三国志蜀書後主伝》建興元年五月、後主が即位すると、皇后を尊んで皇太后と為し、長楽宮と為す。父である呉壹の官は後に車騎將軍に至り、県侯に封ぜられる。《三国志蜀書先主穆后伝》 五月,劉備の棺が永安から成都に還る。劉備を諡して昭烈皇帝。《三国志蜀書先主伝》 建興元年夏、牂牁太守の朱褒が郡を擁して反乱す。是より先、益州郡の大姓である雍闓が反乱する。太守の張裔を呉に流す。郡に撚り通交せず。越嶲夷王の高定がまた叛く。《三国志蜀書後主伝》 秋八月、劉備を惠陵に葬る。《三国志蜀書先主伝》 この年、張氏を皇后と為す。《三国志蜀書二主妃子後主敬哀張后》 尚書郎[登β]芝を遣わして呉と固く好を結ぶ。呉王の孫権は蜀と和し使者を送る。是歲より通好す。《三国志蜀書後主伝》 誕生者 死没者 劉備 黄元
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/188.html
<魏 250年> <蜀漢 250年> <呉 250年> 250年 赤烏十三年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫和→(廃太子)→孫亮 三公(呉) ? その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 左大司馬:朱然(前車騎將軍)→(死亡)→? 右大司馬:? 大将軍:諸葛恪(前威北將軍) 驃騎将軍:朱據 車騎将軍:? 衛将軍:? 上大將軍:呂岱(前鎮南將軍)? 主な事件 十三年夏五月、日至、熒惑が南斗に入る。《三国志呉書呉主権伝》 秋七月、東の空で魁第二星を犯す。《三国志呉書呉主権伝》 八月、丹楊、句容及故鄣、寧國の諸山が崩れる。鴻水が溢れる。詔に原逋責,給貸種食.廢太子和,處故鄣。《三国志呉書呉主権伝》 八月、魯王の孫霸が死を賜う。《三国志呉書呉主権伝》 冬十月、魏の將の文欽が反乱を偽って朱異を誘う。孫權は呂據を遣わして朱異に付けて文欽を迎えさせた。朱異等は慎重に動いたので文欽はあえて進まなかった。《三国志呉書呉主権伝》 十一月、子の孫亮を立てて太子と為す。《三国志呉書呉主権伝》 軍十萬を派遣して作堂邑涂塘以淹北道。《三国志呉書呉主権伝》 十二月、魏の大將軍の王昶が南郡を囲む。荊州刺史の王基が西陵を攻める。將軍の戴烈、陸凱を遣わして抗戦する。皆引還した。《三国志呉書呉主権伝》烽火以炬置孤山頭,皆緣江相望,或百里,或五十﹑三十里,寇至則舉以相告,一夕可行萬里.孫權時合暮舉火於西陵,鼓三竟,達吳郡南沙《三国志呉書呉主権伝に引く庾闡の揚都賦注》 是歲、神人が書を授け、改年、立后を告げた。《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 孫霸:魯王 注 ▲PAGE TOP 249年<< >>251年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/186.html
<魏 248年> <蜀漢 248年> <呉 248年> 248年 赤烏十一年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫和 三公(呉) ? その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 左大司馬:朱然(前車騎將軍) 右大司馬:? 大将軍:諸葛恪(前威北將軍) 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 上大將軍:呂岱(前鎮南將軍)? 主な事件 十一年春正月、朱然が江陵に城を築く。《三国志呉書呉主権伝》 二月、地震。《三国志呉書呉主権伝》孫權の詔に曰わく「朕以寡德,過奉先祀,蒞事不聰,獲譴靈祇,夙夜祗戒,若不終日.僚其各厲精,思朕過失,勿有所諱」《三国志呉書呉主権伝に引く江表傳》 三月、宮が完成する。《三国志呉書呉主権伝》 夏四月、雨雹。《三国志呉書呉主権伝》 四月、雲陽から黃龍が見られたと伝えて来た。《三国志呉書呉主権伝》 五月、鄱陽から白虎が現れ、仁だと伝えて来た。《三国志呉書呉主権伝》瑞應圖によれば、白虎の仁は、王者が暴虐を行わないとき現れ、仁なる虎として害を与えないという《三国志呉書呉主権伝に引く瑞應圖》 詔して曰わく「古者聖王積行累善,脩身行道,以有天下,故符瑞應之,所以表德也.朕以不明,何以臻茲?書云『雖休勿休』,公卿百司,其勉脩所職,以匡不逮。」《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 247年<< >>249年
https://w.atwiki.jp/brewwiki/pages/830.html
⇒三国志タクティクス
https://w.atwiki.jp/si1215017eta/pages/18.html
現在、paint_bbsプラグインはご利用いただけません。
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/98.html
<魏 225年> <蜀漢 225年> <呉 225年> 225年 黄初六年(魏) 皇帝 曹丕(魏文帝) 皇后 郭氏(文德郭皇后・安平広宗の人) 三公(魏) 呉王:孫権 太尉:鍾繇 司徒:華歆(前御史大夫) 司空:王朗(前大理) その他の要職(魏) 太常:邢貞? 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大司馬:(空位) 大将軍:孫権 驃騎将軍:? 車騎将軍:公孫恭(遼東太守) 衛将軍:? 地方官 并州刺史:梁習 主な事件 六年春二月、使者を遣わして許昌以東沛郡までを循行させ、病に苦しんでいる民を探し、貧者に之を貸すようにした《三国志魏書文帝紀》 三月、召陵に行幸し、討虜渠を通る《三国志魏書文帝紀》 三月乙巳、許昌宮に還る。并州刺史の梁習が鮮卑の軻比能を討つ。大いに破る《三国志魏書文帝紀》 三月辛未、帝は船団をもって東征する《三国志魏書文帝紀》 五月戊申,譙に行幸する《三国志魏書文帝紀》 五月壬戌、熒惑が太微に入る《三国志魏書文帝紀》 六月、利成郡の兵、蔡方等が郡をもって叛く。太守の徐質を殺す。屯騎校尉の任福を遣わして步兵校尉の段昭、青州刺史とともに之を討ち平定する。脅迫略取に遭いまた亡命した者は皆其罪を赦す《三国志魏書文帝紀》 秋七月、皇子曹鑒を立てて東武陽王と為す《三国志魏書文帝紀》 八月、帝は遂に水軍船団をもって譙から渦を巡り淮河に入る。陸路を徐州に行幸する《三国志魏書文帝紀》 九月、東巡台を築く《三国志魏書文帝紀》 冬十月、廣陵故城に行幸する。長江に臨んで觀兵する。戎卒十餘萬、旌旗は數百里に及んだ《三国志魏書文帝紀》 十一月、東武陽王曹鑒が薨ず《三国志魏書文帝紀》 十二月、譙から梁を過ぎ行軍する。故漢太尉橋玄の墓に太牢をもって祀らせる 是歲大寒。水路は凍り、舟は長江に入れなかったため引き還えす《三国志魏書文帝紀》 誕生者 死没者 曹鑒:東武陽王
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/90.html
<魏 223年> <蜀漢 223年> <呉 223年> 223年 黄初四年(魏) 皇帝 曹丕(魏文帝) 皇后 郭氏(文德郭皇后・安平広宗の人) 三公(魏) 呉王:孫権 太尉:賈詡→鍾繇 司徒:華歆(前御史大夫) 司空:王朗(前大理) その他の要職(魏) 太常:邢貞 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:鍾繇→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大司馬:曹仁(前大將軍)→(死亡) 大将軍:孫権 驃騎将軍:? 車騎将軍:公孫恭(遼東太守) 衛将軍:? 主な事件 四年春正月、詔して曰く「争乱以来、戦争は止まず、相殺し合っている。今海內初めて定まり、復讐するものは皆族殺する。《三国志魏書文帝紀》 宛に南巡台を築く。《三国志魏書文帝紀》 三月丙申、宛から洛陽宮に還る。《三国志魏書文帝紀》 癸卯、月が心の中央の大星を犯す《三国志魏書文帝紀》 丙午の詔勅に曰く「孫権が民と物を害したので、猛将に命じて三道より並征する。征東諸軍(曹休)は孫権の呂範等と水戦を交え、斬首四萬、,捕獲した船一万艘。大司馬(曹仁)は濡須に守り、その捕らえた所は一万を数え、中軍(曹真)、征南(夏侯尚)、は江陵を攻め囲む。左将軍張郃等は船の舳先を真っ直ぐにして渡り、その南渚を撃つ。賊で水溺死者は数千人。地を掘って城を攻め、城の中外は雀鼠も出入出来ない。しかし賊の中に疾病が蔓延し、長江の一帯は汚染された。今江陵の囲むを解く。かつ力役を休め、士民を養い蓄え、安息させる。《三国志魏書文帝紀に引く魏書》 丁未、大司馬の曹仁が薨ず《三国志魏書文帝紀》 三月中、大疫《三国志魏書文帝紀》 夏五月、鵜鶘鳥が靈芝池に集った。詔して曰く「この鳥は君臣が遠く小人が近いと曹詩に謳われている。今賢智之士が下位にいるというのか。広く天下の德茂才を挙げよ」《三国志魏書文帝紀》 五月辛酉、有司は二廟を造るよう奏上した。太皇帝廟を立て、大長秋特進侯と高祖を合祭し、疎遠になれば順次棄却する。特に武皇帝廟を立て、四時に祭祀を行い、魏太祖は永久に毀さず。《三国志魏書文帝紀に引く魏書》 六月甲戌、任城王の曹彰が都に於いて薨ず《三国志魏書文帝紀》 六月甲申、太尉の賈詡が薨ず。太白が昼に見える《三国志魏書文帝紀》 六月中、大雨。伊水、洛水が溢れる。人民を殺し、廬宅を壊す《三国志魏書文帝紀》 七月乙未、大軍が出撃する。太常に特に牛一をもって郊に告祀させる。裴松之が言うには、魏では出師の前後に犧牲祭器を具えて告郊之礼を行っていた。《三国志魏書文帝紀に引く魏書》 秋八月丁卯、廷尉の鍾繇を太尉と為す《三国志魏書文帝紀》有司が奏上した。漢氏の宗廟を改めて、安世樂は正世樂に、嘉至樂は曰迎靈樂に、武德樂は武頌樂に、昭容樂は昭業樂に、雲(翻)[翹]舞は鳳翔舞に、育命舞は靈應舞に、武德舞は武頌舞に、文(昭)[始]舞は大(昭)舞に、五行舞は大武舞に《三国志魏書文帝紀に引く魏書》 八月辛未、滎陽で狩猟を行う。遂東巡し、孫權を征討した際の論功行賞をした。諸將に進爵增戶あり格差があった《三国志魏書文帝紀》 九月甲辰、許昌宮に行幸する《三国志魏書文帝紀》 十二月丙寅、山陽公夫人に湯沐邑を賜う。公女曼を長樂郡公主と為す。食邑各五百戶《三国志魏書文帝紀に引く魏書》 是冬、甘露が芳林園に降る。後に齊王芳が即位した時、華林と改められた《三国志魏書文帝紀に引く魏書》 誕生者 死没者 曹彰:任城王 賈詡